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音の運んでくるもの

渡部玄一コラム

我が国の国学の泰斗で、多くの和歌を生涯に渡り探求した本居宣長の言葉に、「姿は似せがたく、意は似せ易し」という言葉があります。これは、出来上がった和歌の意図や内容は案外みんな同じ程度に理解できるが、「言葉」そのものに対する感性はそう簡単にはいかない、という意味です。この文に触れた時、私は音楽をやる者としてそれまで何かすっきりしなかったものが、すーっと腑に落ちた感じがしました。そしてこの言葉を即座に「音は似せがたく、意は似せ易し」と言い換えてみました。

私がニューヨークのジュリアード音楽院で勉強していた時にお世話になった恩師は、当時世界でも最も厳しい先生のひとりとして恐れられていた人でした。ロシアからの移民ユダヤ人で、伝説的な音楽家たち、例えばラフマニノフやトスカニーニ、ルービンシュタイン、ハイフェッツなどと直接交流のあった所謂リビングレジェンド( 生きる伝説) です。

この方のレッスンは壮絶で、一音ひいては怒鳴られ、二音弾いては罵倒され、三音弾いては天を仰いで嘆かれる、といったものでした。曲を練習して持って行っても楽譜の最初の二段で二ヶ月や三ヶ月かかるのは当たり前で、音を出して0.1秒後に怒鳴られるということもざらでした。とにかく、音に意味がないこと、特にトーン(音色)というものが無いと人間としてもまともに扱ってくれないぐらいでした。

週に一度、参加自由、見学自由のマスタークラスというものがあって、ある時ヴァイオリンの生徒が先生に聞いてもらっていました。楽器も違うし他の先生の生徒なので、自前の生徒の百倍くらい優しく教えていました。しかしその生徒が音について注意を受けたとき「でも先生、これは弱音で引くようにと楽譜に指示があります」と言ってしまい、ついに爆発しました。

「いいか、おまえの音は糞なんだ。糞に強音も弱音もあるか! 出て行けー!」と。その様はまるで雷神で、そのあと皆で怒りを抑えるのが大変だった記憶があります。私たち生徒は、いかに演奏をする意味を持つ、トーンを持った音を出すことが困難で大切かを、骨の髄までたたき込まれました。

ベートーベンのあの有名な運命の交響曲の出だしを、激しい、人生への闘争心の表現だといわれればなるほど、よく分かります。あの切迫した、聴く者に異様な緊張を強いる第一楽章を聞けば、ベートーベンの持っていたイメージがいかに深刻だったかも理解できます。そして大抵の人はその音楽を十分理解した気になります。もちろん楽しむ分にはそれで全く構わないのですが、演奏家までそこで満足してしまうという罠があるのです。

あの、じゃじゃじゃじゃーん、を本物の芸術とするのは、それを構成する音をいかに磨くか、そしてそこにどれだけの努力の蓄積と感性を使うかにかかっているのです。その事を曲の意図に目がくらんで忘れてしまうことがあるのです。さらに言えばその様な人間の激しい感情や深い情感を表現するのが音楽の最高の目的だと思い込んでしまう危険さえあるのです。

自分が若い学生だった頃は、この作曲家はどうだとか、ロマン主義はどうだとか、解釈や主義主張などに目を奪われよく議論をしたり批判をし合ったりしていました。もちろん全く意味の無い事ではありませんでしたが、本当はもっと楽器にひとりで向かい合って、心静かに耳を澄ませながら、音そのものを磨くべきだったのだと今では思います。

本物の演奏家は「この音が自分だ」と言い切れるほど音そのものに取り組んできています。私が心から願うのは、多くの人に是非生の演奏の音を聞いて欲しい、ということです。

なぜなら、音楽は「耳を澄ます」ということが、最高の目的だからです。

渡部玄一・文
「PAVONE」第10号より転載